小町通りの人混み、江ノ電の踏切に侵入する観光客、ゴミのポイ捨て――鎌倉市民なら一度は目にしたことがあるのではないでしょうか。「観光客が多すぎる」と感じる一方で、「でも鎌倉の経済には必要」というジレンマ。この永遠のテーマに、新しい視点で切り込む「ツーリストシップ」という言葉が、今、注目を集めています。鎌倉市内で開催されたイベント「ツーリストシップで問う、新しい旅行の仕方」では、一般社団法人ツーリストシップの地域連携マネージャー・春田菜々美さんが登壇。リーダーシップやスポーツマンシップがあるように、観光にも"シップ"があっていい――そんな発想から生まれた新しい概念について、熱く語りました!小学生の試験にも登場する「オーバーツーリズム」春田さんがまず取り上げたのは、私たちにとって身近な「オーバーツーリズム」という言葉です。「実はこの言葉、今ではもう、小学校5年生や6年生の社会科の試験に出題されているんです」2023年に流行語にも選ばれたオーバーツーリズムですが、まさか小学生の試験問題になっているとは…!出題された問題はこうです。「オーバーツーリズムへの対策として、観光地域の入場料を有料にして観光客の増加による混雑を抑制するという案があります。観光地域の入場を有料にすること以外で、観光客増加による混雑を緩和する方法を考えて書きなさい」記述式で、子どもたちに対策を考えさせる問題です。オーバーツーリズムは、もはや次世代が向き合うべき重要な社会課題として、教育現場にまで浸透しているのです。観光客の過度な集中によって、地域の生活の質や環境が悪化する――これがオーバーツーリズムの定義です。観光庁も持続可能な観光地域づくりを推進し始めていますが、具体的にどうすればよいのでしょうか。観光まちづくりで大切な「4つのバランスと2つのケア」春田さんは、観光まちづくりにおいて重要な「4つのバランス」を紹介しました。旅行者数のバランス。旅行者が少なすぎると安定雇用が生まれず、多すぎると住民の暮らしが脅かされます。「いや、そう言われても難しいよ」というのが正直なところですが、このバランスを考えることは避けて通れません。文化の継承と変容のバランスも興味深い視点です。春田さんは鎌倉や京都のレンタル着物を例に挙げました。「最近、ピンクの着物に白のレースを合わせたり、真っ白な着物が流行っていますよね。でも、一部の住民の方からは『それっていかがなものなの?』という声もあります。ただ一方で、着物屋さんにとっては大きな経済メリットがある。何を変えてよくて、何を守るべきなのか、とても難しいバランスです」さらに、街の変容のバランスとして、京都の事例が紹介されました。英語の看板やメニューだけの飲食店が増え、外国人観光客は入りやすくなった一方で、住民は「置き去りにされている」と感じてしまう。地域のアイデンティティと観光の受入体制、そのバランスをどう取るか。4つ目は内資と外資のバランス。地元企業にお金が回らなければ、経済効果は地域外に流出してしまいます。これらに加えて「2つのケア」も重要です。社会課題のケアでは、タイの象乗り体験が紹介されました。実はこれ、象への過酷な調教を伴うため規制されているのですが、日本語での情報発信が少ないため、日本人旅行者は知らずに利用してしまっているのです。中国の赤ちゃんパンダ抱っこ体験も同様で、パンダにストレスを与えるため規制されています。環境負荷のケアについては、屋久島の縄文杉の事例が心に残ります。観光客が集中したことで木が枯れてしまったという、痛ましい出来事です。旅行者が来ると変わる「音と匂い」では、受け入れ側には何ができるのでしょうか。春田さんが強調したのは、「旅行者が来ることで変わるのは、音と匂いなんです」という点でした。「例えば小町通りを歩いていると、中国語、英語、いろんな言語が聞こえてきますよね。そして匂い。外国人の方は香水をつける文化がありますので、『外国人の方かな』と匂いで気づくこともあります」こうした具体的な変化を住民に事前に伝えておくことで、心の準備ができます。住民説明会を開き、街がどう変わるのかを共有していくことが大切だと春田さんは語ります。また、文化慣習の明文化も重要です。日本には暗黙のルールが多く、外国人旅行者には理解できないものがたくさんあります。何を変えてよくて何を守るべきかを、明確に記録しておく必要があるのです。マナー違反を3つに分類すると見えてくるもの「皆さん、マナー違反と言われたらどう説明しますか?」春田さんの問いかけに、会場は静まり返りました。実は、一口に「マナー違反」と言っても、3つに分類できるというのです。1つ目は「万国共通の生活行動」。江ノ電の踏切への侵入や、小町通りでのポイ捨てなどです。これらは、どの国でも基本的には望ましくないとされる行動ですが、旅行中は「バケーションマインド」になり、日常から解放されることでマナーレベルが下がってしまうこともあります。目の前の人がポイ捨てをしたら自分もいいかなと思ってしまう、群集心理の影響も大きいのです。2つ目は「地域の慣習に基づく行動」。これが最も外国人に伝えにくいものです。「歩き食べ、皆さんどう思いますか?よく母から『歩きながら食べちゃダメだよ』って言われて育ちませんでしたか?」春田さんの言葉に、多くの参加者がうなずきました。京都の錦市場では歩き食べが一切禁止されていますが、これは合理的な理由(ゴミが増える、商品が汚れる)と文化的な理由(礼儀に反する)の両方があります。路上への座り込みも同様で、日本人の感覚では「いかがなものか」と感じる人が多い。「ガイドさんからも『こういうのは理由を言ってもなかなか納得されないことが多い』という声があります。文化的な背景を持つマナーは、伝えることが本当に難しいんです」3つ目は「新たに旅行者に求められる行動」。大型スーツケースの使用を避ける、混雑時間を避けるなど、オーバーツーリズムの深刻化に伴い、新たに配慮すべき事項が増えています。スポーツマンシップがあるなら、ツーリストシップもこうした課題を前に、春田さんたちが提案するのが「ツーリストシップ」という新しい言葉です。「リーダーシップ、スポーツマンシップがあるなら、ツーリストシップだってあっていい。いや、あるはずだ、あるべきだという情熱を持って、この言葉を推進しています」ツーリストシップとは、「旅先に配慮したり貢献しながら交流を楽しむ姿勢やその行動」のこと。単にルールを守るという受動的な姿勢ではなく、配慮し、貢献し、交流を楽しむという能動的な姿勢を表しています。では、具体的にどんな行動がツーリストシップなのでしょうか?春田さんは6つの例を紹介しました。ゴミの持ち帰り。京都でゴミ箱がいっぱいの時は、ゴミ袋を持参して持ち帰る。これは単なるマナーを超えて、地域の美化に積極的に貢献する姿勢です。住民への配慮。墨田区の宿泊事業者へのアンケートでは、夜中の騒音、ゴミの放置、タバコの吸い殻のポイ捨てなどが問題となっています。「周りに住民が暮らしている」という意識を持つことが大切です。手ぶら観光。荷物を減らすことも、他の人への配慮になります。最近では、ホテルから空港へ荷物を配送するサービスも増えています。ゼロドルツアーを避ける。これは観光の専門用語で、旅行先に経済的な利益がほとんど落ちないツアーのことです。「例えば、フランスに旅行に行って、買ったものや食べたものが実はフランス産ではなかったら、フランスの事業者には1円も落ちていないかもしれません。せっかく行くなら、その地域にお金を落とす行動をしましょう」翻訳アプリに頼らない交流。春田さんが浅草寺で体験したエピソードが印象的でした。「外国人の方が、何も言わずにスマホの翻訳アプリを見せてきて、質問をして、答えを得たらお礼も言わずに去っていくんですよ。結構怖くないですか?」翻訳アプリは便利ですが、まず「こんにちは」と挨拶をする、お礼を言う、そういった人間的な交流をワンクッション重ねることが大切だと春田さんは語ります。ホストになる。「旅行に行くことは大好きだけど、自分の地域に来る観光客は嫌い」という人がいますが、これでは旅行文化は成り立ちません。旅から帰ったら、自分もホストとして旅行者を迎え入れる姿勢を持つことが重要です。楽しく学べる「旅先クイズ会」という取り組みツーリストシップを広めるために、一般社団法人ツーリストシップが展開しているのが「旅先クイズ会」という活動です。約2年で170回以上開催し、2万4000人以上が参加。北海道から沖縄まで、台東区、墨田区、奈良県、京都市など、様々な自治体と連携して実施しています。現在、浅草寺と京都の八坂神社で定期開催されており、浅草寺では7割が外国人、3割が日本人、八坂神社では9割が外国人という構成です。鎌倉で実施する場合、八坂神社の規模感が参考になりそうです。「丸バツブザーというものを使っているんですが、ピンポン、ブブーという音が鳴るんですね。この音に惹かれて人が寄ってくるんです」春田さんが笑顔で語るように、いかに楽しくルールやマナーを学んでもらうかを重視しています。この取り組みには3つのメリットがあります。1つ目はマナー向上。掲示物は右から左に流れてしまいがちですが、人から人へ直接伝え、クイズで楽しく学ぶことで効果が現れます。錦市場では、「歩き食べダメですよ」というクイズを継続的に出題し続けることで、歩き食べをする人が全くいなくなり、ゴミも減ったという報告があります。2つ目は旅行者の声を収集できること。クイズ後にアンケートをお願いすると、ほぼ100%の人がスムーズに回答してくれます。楽しい体験を挟むことで、旅行者の本音を聞き出せるのです。3つ目は地域の気運醸成。広島の観光大使や京都の留学生など、地域住民がボランティアとして主催者になることで、地域全体でツーリストシップを推進する文化が育ちます。留学生は英語の練習、シニアは社会貢献と、様々な動機で参加できるのも魅力です。全68項目をまとめた「行動集」も2024年8月には、「ツーリストシップ行動集」もリリースされました。「『ツーリストシップって何?』という質問を本当に多く受けてきたんですが、その場で答えられるツールがなくて、歯がゆい思いをしてきました」そこで作られたのが、全68項目のツーリストシップをまとめた行動集です。国内外で使える内容で、GSTCという国際認証基準に基づいて作られています。「『これしよう、これしよう』という羅列ではなく、『こういう事例があるから、こういう行動をしよう』という形で、すべての項目に事例と理由を添えています」関係者へのヒアリングも実施し、信頼性の高いツールとして仕上げられました。住民と旅行者が共に街を守る未来へツーリストシップが目指すのは、「住民が来てほしいと思う旅行者を増やすこと」です。単に観光客を増やすのではなく、質の高い旅行者を増やすことで、持続可能な観光が実現します。「観光は平和産業の一つと言われていますが、それを具体的な形にしていきたいんです。旅行者と受け入れ側の両方が、お互いに思いやりを持って行動していく。そうすることで、住民と旅行者が共に街を守り、育てていく循環が生まれます」春田さんの言葉に、新しい観光のあり方が見えてきます。イギリスのFinancial Timesに取り上げられるなど、ツーリストシップは徐々に世界にも広がりつつあります。日本発の概念として、グローバルな観光のスタンダードになる日も、そう遠くないかもしれません。鎌倉は、小町通りや江ノ電周辺など、オーバーツーリズムの課題を抱えています。だからこそ、ツーリストシップが実践される意義のある場所でもあります。「鎌倉でどのようなツーリストシップが発揮できるか、地域の特性に合わせた具体的な行動を一緒に考えていきましょう」若く元気な春田さんの呼びかけに、会場からは拍手が起こりました。まとめ:一人ひとりの小さな行動からリーダーシップやスポーツマンシップと同じように、観光にも「シップ」がある。この新しい概念は、観光客を「消費者」から「参加者」あるいは「貢献者」へと位置づけ直します。配慮・貢献・交流という3つの要素を持つツーリストシップ。それは、旅行者一人ひとりの小さな行動から始まります。ゴミを持ち帰る、地元の店で買い物をする、挨拶をする――そんな些細な行動が、住民と旅行者の良好な関係を築き、街を守り、育てていくのです。次の旅行の際には、ぜひ「ツーリストシップ」を意識してみてください。そして鎌倉を訪れる旅行者にも、この考え方が広まっていけば、小町通りの風景も、きっと少しずつ変わっていくはずです!【実施後記】イベント終了後も、参加者同士で「鎌倉でできること」について活発な意見交換が続きました。「まずは自分が旅行する時に実践してみる」「知り合いの宿泊施設でツーリストシップを紹介したい」など、具体的なアクションを考える声が多く聞かれました。次回は11月21日に実施予定です!