NIHO kamakuraで開催された音楽セミナー第2回!今回のテーマは、「King of POP」として知られるマイケル・ジャクソンです。音楽ジャーナリストの石原さんを講師に迎え、MVや音源を交えながら、誰もが知るアーティストの意外な素顔に迫りました。天才の始まり:夢を諦めた父が見出した7歳の才能マイケル・ジャクソンの音楽の原点には、父ジョー・ジャクソンの叶わなかった夢がありました。インディアナ州の裕福とは言えない家庭で育った父は、かつてミュージシャンを志していましたが、その夢を諦めて工場で働いていたのです。しかし、運命の転機が訪れます。ある日、父は自分の子供たちがギターを弾き、歌い、コーラスをする姿を目にします。その才能に気づいた父は、自分の夢を子供たちを通じて実現しようと決意。厳しい訓練を課しながら、子供たちのプロデュースを始めることになりました。そんな中、当時7歳だったマイケルは、兄たちの練習を横で見学しているうちに、見よう見まねで踊ったり歌ったりするようになります。「小さいから向こうに行ってなさい」と言われていた末っ子は、たちまち周囲の目を驚かせることになります。その歌唱力とダンスの才能が、他の兄弟とは明らかに一線を画していたのです。注目すべきは、わずか7歳にして既に持っていた驚くべき感性です。地元の新聞社が写真を撮影に来た際、マイケルは自ら「円になって並んだ方が個性を出せる」と提案したといいます。「7歳の子供が、自分たちをどう見せれば良いかを理解していたというのは、驚くべき才能ですね」と石原氏。そんなマイケルを含むジャクソン5は、デビュー曲「I Want You Back」で成功を収めます。その後、「ABC」はビートルズの「Let It Be」を抜いて1位を獲得。わずか9歳でのこの快挙に、石原氏は「当時のジャクソン5は、ものすごい人気でした。子供たちは自分たちと変わらない子供たちが歌って踊る姿を見て、大きな刺激を受けていたはずです」と当時を振り返ります。誰も知らない創作の秘密:楽器を持たない天才マイケル・ジャクソンの創作手法は、実は極めて特殊でした。「楽器は演奏しませんでした。楽譜も書けなかった。それなのに、どうやって曲を作っていたのか?」と石原氏は問いかけます。その答えは、驚くべきものでした。マイケルは、頭の中で完成された音楽のイメージを持ち、それをスタッフに直接伝えていたのです。「今の時代なら、DTMやギターで作曲する人が多いですよね。でも、マイケルは違いました。道具に頼らず、純粋に頭の中から湧き出てくるイメージを形にしていったんです」さらに特筆すべきは、曲作りの段階から、ダンスの振付や映像の演出まで、全てを一体的にイメージしていたという点です。「普通は、曲を作ってから振付を考え、その後で演出を考えます。でも、マイケルの場合は全てが同時進行。だからこそ時間はかかりましたが、その分、完成度の高い作品になっていったんです」フィーリングと振付:ダンスへの独自のアプローチこの「フィーリングで踊る」というアプローチは、後のダンス界に大きな影響を与えることになります。その代表例として、石原氏は日本人ダンサーのケント・モリの例を挙げました。「ケントは、マイケルのバックダンサーのオーディションを受けた時、他のダンサーが振付を完璧に踊る中、あえて動きを抑えた場面があったんです。普通なら失格になりそうなところ、逆にマイケルの目に留まった。なぜなら、それこそがマイケルの求めていた『フィーリング』だったから」このエピソードは、マイケルのダンスに対する考え方をよく表しています。形式的な完璧さよりも、音楽との一体感や表現力を重視する姿勢は、現代のダンスシーンにも大きな影響を与えています。知られざる人間関係:フレディ・マーキュリーとの意外な縁マイケルの音楽性を語る上で、欠かせない存在がいます。それは、クイーンのフレディ・マーキュリーです。「二人は頻繁に会っていて、同じような感性を持っていると感じていたようです」と石原氏は語ります。特に興味深いのは、クイーンの名曲「Another One Bites the Dust」にまつわるエピソードです。「当時、ディスコは主流ではありませんでした。クイーンのメンバーも、ディスコ調の曲を作ることに抵抗があった。でも、マイケルに勧められて制作したところ、大ヒットした。マイケルのアドバイスがなければ、この曲は生まれていなかったかもしれません」一方で、ポール・マッカートニーとの関係は、ビジネスによって複雑な展開を見せることになります。「マイケルはポールの楽曲の著作権を次々と買収していきました。これが原因で、二人の関係は悪化してしまう。ビジネスと友情の難しさを象徴する出来事でしたね」天才の孤独:理解者の不在しかし、そんなマイケルにも大きな転機が訪れます。1984年、ペプシのCM撮影中の事故です。「火花が近くで爆発し、マイケルの頭に引火してしまった。この事故以降、彼は徐々に変わっていきます」事故の後、マイケルは人前でサングラスをするようになり、次第に周囲との距離を置くようになっていったといいます。「母親以外は誰も近づけない、自分の殻に閉じこもるようになってしまった。才能が大きすぎるが故の孤独だったのかもしれません」愛の人:500億円の寄付と理想の追求しかし、マイケルの人間性を語る上で、見逃せない事実があります。それは、彼の驚くべき慈善活動です。「マイケルの推定収入は2000億円と言われていますが、そのうちの500億円を寄付していたんです」と石原氏。これは単なる数字ではありません。収入の4分の1を寄付するという行為は、彼の理想を追求する強い意志の表れだったと言えるでしょう。同じアーティストであるプリンスは、マイケルについてこう語ったといいます。「マイケルのことをリスペクトしている。彼は愛の人だから」。この言葉は、マイケルの本質を端的に表現しているのかもしれません。現代に残る影響力:エンターテインメントの革新者としてマイケルが音楽界に残した影響は、現代でも色濃く残っています。特に、ミュージックビデオの芸術性を高めた功績は大きいと石原氏は指摘します。「スリラーのミュージックビデオは、当時としては画期的でした。映画のようなストーリー性、特殊メイク、そして迫力のあるダンスシーン。これらは現代のミュージックビデオの原型とも言えます」また、人種の壁を超えた音楽性も、マイケルの重要な功績の一つです。「彼は意識的に、黒人音楽の枠を超えようとしました。ロックサウンドを取り入れ、白人が好きなホラー映画の要素を盛り込むなど、より幅広い層にアピールできる音楽を目指した。その結果が『スリラー』の大成功につながったんです」現代のK-POPアーティストのパフォーマンスや、総合的なエンターテインメントの在り方にも、マイケルの影響を見ることができます。「曲、ダンス、映像を総合的にプロデュースする今のエンターテインメントの形は、マイケルが先駆けとなった部分が大きいですね」おわりに:愛と孤独を抱えた真のエンターテイナーマイケルの真髄は、若手アーティストやダンサーたちとの関わり方に如実に表れていました。「This Is It」の映像でも垣間見えるように、マイケルは共演者たちを心から励まし、その可能性を引き出そうとしていました。「もっと自信を持って」「君ならできる」―そんな言葉の端々に、偽りのない愛情が感じられます。一方で、マイケルは確かに孤独でした。それは天才ゆえの孤独だったのかもしれません。例えば、ステージの演出を考える際、マイケルの頭の中にあるイメージがあまりに突飛で、スタッフですら理解できないことがありました。「後ろにモニターがなくても自分は感じることができる」というマイケルの言葉に、スタッフは戸惑いを隠せなかったといいます。それほどまでに、彼の感性は特別だったのです。7歳で才能を開花させ、独自の創作方法で数々の名曲を生み出し、ダンスや映像表現の新境地を切り開いた。そして、その全てを通じて「愛」を表現し続けた。時に理解されず、時に孤独を感じながらも、最後まで理想を追求し続けた―それこそが、マイケル・ジャクソンという稀有なアーティストの真の姿だったのではないでしょうか。次回は、ジャズ界の大物マイルスデイビスです!!!3~4月ごろ開催予定です!(本記事は、NIHO kamakuraで開催された音楽セミナーの内容を基に、AIを使って構成しています。次回の開催情報は、NIHOか主催の石原さんまでお問い合わせください!)、参考)文字起こし全文以下は文字起こし全文です。誤字も多いです。はじめに今回の音楽セミナーは、「King of POP」ことマイケル・ジャクソンをテーマにお送りします。世界で最も有名なスターの一人であり、世界で一番アルバムを売ったアーティストと言っても過言ではないでしょう。誰もが知るアーティストの、知られていない素顔を、ミュージックビデオや音源、トークを通じて掘り下げていきます。まさに「体感する音楽雑誌」のような内容です。本日は、以下のテーマを中心に展開します。MJの壮絶な生い立ちと苦悩転換期、そして時代の寵児へミュージシャンとして、ダンサーとしてのマイケル・ジャクソン謎に包まれた死、そして残された願い曲を聴きながら、動画を見ながら、彼のバイオグラフィや人となり(個性や癖)をわかりやすくお伝えしていきます。このイベントが、好きなものを通じて新しい繋がりを作るきっかけとなれば幸いです。会場は鎌倉駅徒歩2分の素敵なシェアリビング「NIHO kamakura」です。飲み物や食べ物を片手に、リラックスして楽しんでください。参加された方が、今回のセミナーを通じてマイケル・ジャクソンのことをもっと好きになってくれると嬉しいです。参加者の自己紹介とマイケル・ジャクソンとの出会い参加者A:マイケル・ジャクソンのことは知らないことばかりなので、今日を通じてもう少し好きになっていけたらと思っています。映像媒体はいくつか見たことがあります。昔の曲の特徴を捉えられたりすると面白いですね。一流のミュージシャンが集まっていたからこそ、マイケルの音楽は素晴らしいものになったのだと思います。マイケルの仕事に関わったミュージシャンは、その後のキャリアにも良い影響があったのではないでしょうか。参加者B:自分にとってマイケル・ジャクソンとの最初の出会いは、鈴木亜久里さんがCMに出ていたスズキのスクーター「LOVE」でした。当時、あれがマイケル・ジャクソンの初登場のような印象を持っています。あと、テレビ映画で「ベン」を見たのも最初かもしれません。ただ、CMのポップで可愛いマイケルと、「ベン」の時の印象が一致していませんでした。「ベン」は結構ヒットした映画だったのでしょうか?あまり覚えていないのですが、ネズミがたくさん出てくるような、少し気持ち悪い印象だけが残っています。石原:エディ・マーフィーやアイザック・ヘイズなど、当時黒人のアイドル的存在は少なかったですよね。日本では、ハリウッド俳優が車のCMに出演することは珍しかったと思います。日本のチームが企画を考えると、車のCMにルパン三世を起用したりする発想になるのかもしれませんね。スズキのスクーターのCMにマイケル・ジャクソンを起用したのはすごいことだと思います。参加者C:私が洋楽をちゃんと聴き始めたのは13歳の時で、1978年頃です。当時の情報源はラジオで、FM東京の土曜日の午後に放送されていた「ポップスベスト10」や、湯川れい子さんが深夜にやっていた「アメリカントップ40」をエアチェックしていました。ヒットチャートから入ったので、マイケル・ジャクソンもそこで知りました。1979年の8月だったと思いますが、「Don't Stop 'Til You Get Enough」が1位になり、初めて聞いたマイケル・ジャクソンの曲でした。セカンドシングルの「Rock With You」も続けて聴いて、"Michael Jackson"という名前が刷り込まれました。ただ、アルバムでアクセスしようとは思わず、「Billie Jean」が出て初めてアルバムを遡って聴きました。黒人音楽は当時から嫌いだったわけではなく、むしろディスコブームだったのでよく聴いていました。ドナ・サマーやグロリア・ゲイナー、シック、クール&ザ・ギャング、アース・ウィンド&ファイアーなど、78年頃に洋楽を聴くとディスコは避けて通れませんでした。参加者D:僕の時代は、1982年にリリースされたアルバム「スリラー」がまさにそれでした。10歳の時に衝撃を受け、小学校の謝恩会で出し物として「スリラー」をやろうと提案しました。学級委員だったので、みんなでビデオを見て、女の子たちがキャーキャー言っている中、「これでやるんだ!」と。「君はマイケル役だ!」とか「君はゾンビね!」とか配役を決めて、振り付けを練習してみんなの前で披露しました。小学校の謝恩会で「スリラー」を披露したというのは、すごいエピソードですね。石原:当時、「E.T.」やスピルバーグ作品など、SF映画ブームだったので、「スリラー」も同じような衝撃で入ってきました。ホラー映画も流行っていたし、歌手であるとか、ブラックミュージックであるとか、白人であるとか、そういう概念がなく、とにかく新しいもの、とんでもないものとして入ってきたんです。その後、音楽にはまってマイケルも当然ずっと追っかけていましたが、他の音楽も好きになるので、だんだん自分の中の存在が薄れていきました。音楽雑誌の編集者になり、ダンス雑誌の編集者になった時、マイケルが亡くなって、僕の世代あるいはちょっと下まで、マイケルでダンスを始めた人がほとんどでした。プロから見ても、ストリート系のダンスをやっても、マイケルは偉大だという認識がありました。音楽的には、僕はベースを弾いていたので、マイケルの曲をよくコピーしていました。マイケルの曲はベースがかっこいいんですよね。シンセベースの曲とかでも、グルーヴができてかっこいいなと思っていました。今回、こうして皆さんとマイケル・ジャクソンについて語り合える機会を得られて嬉しいです。ダンス雑誌の編集者として、マイケルが亡くなった後、改めて彼の偉大さを認識したというのは、興味深いお話ですね。マイケル・ジャクソンの生い立ちとジャクソン5石原:マイケル・ジャクソン(以下、マイケル)の生い立ちについて振り返っていきましょう。彼は10人兄弟の末っ子から数えて4番目(7番目)として生まれました。父、ジョー・ジャクソンはインディアナ州のあまり裕福ではない家庭で育ち、ミュージシャン志望でしたが、夢を諦めて工場で働いていました。しかし、たまにギターを取り出して弾いて、家族を喜ばせていたそうです。ジョー・ジャクソンは、実はかなり厳しい父親だったようです。兄弟たちは、父が仕事に行っている隙を見てギターを弾いて遊んでいたらしいのですが、ある時、ティトという三男坊がギターの弦を切ってしまったそうです。父に殺されると思ったそうですが、母が「この子達は音楽が好きで、本当にちゃんとできるのよ」とかばい、父にやらせてみるよう説得しました。兄弟がギターを弾き、歌い、コーラスをするのを見た父は、これはいけると思い、プロデュースを始めたそうです。毎日厳しい訓練を課し、演奏、コーラス、ダンスを徹底的に教え込み、地元のコンテストに出場させました。父は熱心なプロデューサーでしたが、少しやり過ぎてしまうところもあり、ストリップ劇場に出演させたり、人気が出てグルーピーが寄ってくるお裾分けをもらったりしていたそうです。マイケルはそれが嫌で、寝ている隣のベッドで父が女性と何かしているのを見ることもあったそうです。マイケルにとって、父親は複雑な感情を抱く存在だったのかもしれません。マイケルが7歳か8歳の頃、兄たちが練習しているのを横で見学しているうちに、見よう見まねで踊ったり歌ったりするようになったそうです。最初は「小さいから向こうに行ってなさい」と言われていたのですが、マイケルはすぐに才能を発揮し、他の兄弟とは格が違うと言われるようになりました。他の兄弟も才能があったにも関わらず、マイケルだけが特別だったというのは、興味深いですね。マイケルが加入し、マーロンという弟が加わって、ジャクソン5が結成されました。マイケルは、兄弟の中でも特に可愛らしいルックスで、スタイルも良かったため、特別な存在感を放っていたそうです。この辺りから、マイケルの個性が際立ってきます。地元の新聞社が写真を撮りに来た際、マイケルは自ら並び順を変え、「円になって並んだ方が個性を出せる」と提案したそうです。8歳の頃から、自分がどうすれば良く見えるかを理解していたというのは、驚くべき才能です。彼は、単なる才能だけでなく、様々なことを学んでいたようです。モータウン・レコードとの契約とデビュー石原:ジャクソン5は、モータウン・レコードと契約することになります。モータウン・レコードは、デトロイトにある黒人が設立した音楽レーベルで、ベリー・ゴーディ・ジュニアという人物が創設者であり、プロデューサーでした。マービン・ゲイやスモーキー・ロビンソン、ザ・シュープリームス、ダイアナ・ロス、スティーヴィー・ワンダーなど、後に売れるアーティストを多数抱え、ヒット曲を量産しました。ベリー・ゴーディは、優秀な作家やミュージシャンを使い、白人にも受け入れられるような音楽をプロデュースしました。当時の黒人音楽は、ブルースやリズム・アンド・ブルースが主流で、白人はあまり聴かなかったのですが、モータウンは白人層にもアピールできる音楽を制作し、黒人音楽の可能性を広げました。ベリー・ゴーディは、見た目も礼儀正しく、教育も行き届いているようなイメージをプロデュースし、黒人音楽に対する偏見をなくそうと努力しました。ジョー・ジャクソンはベリー・ゴーディに売り込みに行き、最初は子供だから声変わりすることなどを懸念されましたが、マイケルの才能を認め、契約に至りました。ジョーは徐々に追い出されていくことになります。よくある話ですが、親子でやってきたビジネスが大きくなると、父親がついていけなくなるという状況です。ジョー・ジャクソンは、ジャクソン5を成功させるために必死でしたが、次第にベリー・ゴーディの才能に圧倒されていったのかもしれません。ベリー・ゴーディの手腕によってデビューした曲が、「I Want You Back」です。(楽曲再生)石原:メジャーデビュー後、2曲目の「ABC」は、ビートルズの「Let It Be」を抑えて1位を獲得しました。3曲目は「The Love You Save」で、ジャーメインがリードボーカルを務めていました。もともとは、ジャーメインがリードボーカルだったのですが、次第にマイケルが中心になっていきました。マイケルは幼い頃から天才と言われていましたが、本当にその通りだと思います。9歳でこれだけの歌唱力とパフォーマンスができるのは驚異的です。当時のジャクソン5は、ものすごい人気で、コンサート会場は熱気に包まれていました。テレビにも頻繁に出演し、子供たちが自分たちと年齢の近い子供たちが活躍しているのを見て、刺激を受けていたと思います。ジャクソン5は、声変わりと共に少し青年っぽくなっていきますが、その頃からダンスで見せるようになります。有名な「ダンシング・マシーン」という曲もリリースしました。最後に当時のマイケルの18番だったロボットダンスを見てみましょう。(映像再生)石原:この頃は、マイケルがどんどん前に出ていくようになり、兄弟間の力関係が見えてきます。マイケルと愉快な仲間たち、という感じですね。でも、兄弟は本当にみんないい奴だったらしくて、マイケルは友達がいなかったので、兄弟だけが友達だったそうです。マイケルは、兄弟のあだ名をつけるのが好きだったらしく、少し意地悪なあだ名をつけていたそうです。ただ、自分が言い返されるとすごく傷つく繊細な一面もあったそうです。昔から鼻が大きかったり、ニキビに悩まされたりしていたこともあり、兄弟からあだ名を言い返されると、自分が言っておいたにも関わらず、すごく傷ついていたそうです。マイケルの天才的な歌唱力という意味では、「Ben」をぜひ見てほしいですね。犬の映画の主題歌で、ソロ曲です。(楽曲再生)モータウンとの契約解除、ジャクソンズへの改名、そしてソロ活動へ石原:モータウン・レコードのベリー・ゴーディは、ほぼ奴隷契約のような内容をジャクソン5に強いていました。契約内容は、ジャクソン5という名称のすべての権利はモータウンが所有する、モータウンがすべての楽曲を選曲し、会社が納得するまでグループは各曲のレコーディングを続けなくてはならない、モータウンと契約が終了した場合グループはその後5年以内のいかなる時点においても他のレコード会社のためのレコーディングをすることができない、モータウンはレコーディングした楽曲を発売する義務を持たない、発売された楽曲の制作に使われた経費がリリースされた作品の利益から捻出される、というものでした。要するに、モータウン側が非常に有利な条件となっていました。ジャクソン5はレコードの売上が良かったにも関わらず、ほとんどお金が入ってこないことに不満を持ち始め、父のジョーがエピック・レコードに移籍させることになります。モータウンとの契約内容に不満を持っていたのは、メンバーも同様だったようです。ジャクソン5からジャクソンズに名称が変わったのは、モータウンがジャクソン5という名称の権利を持っていたからです。ジャクソンズも良い曲が多く、お勧めです。「Shake Your Body (Down to the Ground)」を聴いてみましょう。(楽曲再生)石原:この頃には、メンバーが自由に楽曲を作れるようになっていました。マイケルはソロアーティストになりたいという気持ちが強くなり、当時映画「ウィズ」のプロデューサーだったクインシー・ジョーンズと出会います。マイケルは、ソロ活動に向けて、より自由に音楽制作ができる環境を求めていたのでしょう。クインシーは快くマイケルのソロ活動をサポートすることになり、第二の父親のような存在になっていきます。マイケルにとって、クインシーは音楽的な才能を引き出してくれるだけでなく、精神的な支えにもなってくれる存在だったのかもしれません。マイケルの母親像は誰かというと、ダイアナ・ロスだったと言われています。マイケルは実の母親も愛していましたが、母親はほぼマネージャーのような存在でした。クインシーはマイケルに音楽的な才能を見出し、ソロアーティストとしての道を開いていきます。クインシー・ジョーンズは、当時すでに著名なプロデューサーであり、ジャズからポップスまで幅広いジャンルを手がけていました。クインシー・ジョーンズとの出会いとソロ活動の成功石原:クインシー・ジョーンズとの出会いは、マイケルにとって大きな転機となりました。2人は「オフ・ザ・ウォール」「スリラー」「バッド」という3枚のアルバムを立て続けにリリースし、黄金期を築き上げます。この3枚のアルバムは、いずれも音楽史に残る大ヒットとなり、マイケルの人気を不動のものとしました。最初の「オフ・ザ・ウォール」に収録されている「Rock With You」を聴いてみましょう。(楽曲再生)石原:この頃のマイケルは、まだ黒人音楽の要素が強く、見た目も黒人らしいものでした。ミュージックビデオも、今のような凝ったものではなく、ライブ映像をそのまま流すようなものが多かったようです。当時はMTVのような音楽専門チャンネルがまだ普及していなかったため、ミュージックビデオにお金をかけるという発想自体があまりなかったのかもしれません。「スリラー」の誕生と音楽史に残る大成功石原:「オフ・ザ・ウォール」で得た経験をもとに、マイケルはさらにアイデアを膨らませて「スリラー」を制作します。スリラーは、マイケル自身が様々なアイデアを出し、クインシー・ジョーンズがそれを具現化していくという形で制作されました。このアルバムの制作にあたり、マイケルは白人にも聴いてもらえる音楽を作りたいという目標を掲げました。ロックサウンドを取り入れ、白人が好きなホラー映画の要素を盛り込むなど、徹底的に白人層を意識した戦略が功を奏し、「スリラー」は世界中で大ヒットしました。マイケルは、黒人音楽の枠を超え、より幅広い層にアピールできる音楽を目指したのです。「スリラー」のミュージックビデオを見てみましょう。(映像再生)石原:マイケルは映画が好きだったらしく、それがミュージックビデオにも反映されています。特にホラー映画が好きだったようで、スリラーのミュージックビデオには、その影響が色濃く出ています。ダンスはブロードウェイのような要素を取り入れており、完成度の高いものになっています。スリラーのミュージックビデオは、当時としては画期的なもので、映画のようなストーリー性や特殊メイク、そして迫力のあるダンスシーンが話題を呼びました。「スリラー」は、音楽史に残るモンスターアルバムとなりました。史上最も売れたアルバムとして、ギネスブックにも登録されています。マイケルは有名すぎるため、ミュージシャンとして正当に評価されていない部分があると思います。今日のセミナーでは、彼の音楽的な特徴についても深く掘り下げていきたいと思います。フレディ・マーキュリーとの交流と音楽的影響石原:マイケルは、フレディ・マーキュリーと交流があり、頻繁に会っていたそうです。ポール・マッカートニーとも親交があり、彼らのパーティーにもよく参加していました。音楽業界の大物たちとの交流を通じて、マイケルは様々な刺激を受けていたのでしょう。フレディとは特に意気投合し、同じ感性を持っていると感じていたようです。音楽的な影響も互いに与え合っており、ファッションも似ている部分がありました。実は、「スリラー」のアルバムの中でフレディと共作しようという企画もあったそうですが、実現には至りませんでした。もし実現していたら、どのような曲が生まれていたのか、想像するだけでもワクワクしますね。フレディがマイケルから影響を受けたのは、「Another One Bites the Dust」だと言われています。当時ディスコが流行していたため、クイーンのメンバーはディスコっぽい曲を作ることに抵抗があったそうですが、マイケルに勧められて制作したところ、大ヒットしました。マイケルのアドバイスがなければ、「Another One Bites the Dust」は生まれなかったかもしれません。ヴァン・ヘイレンの参加と白人音楽との融合石原:「スリラー」には、ヴァン・ヘイレンがギターで参加しています。当時ロック界では、黒人音楽に対して少し見下しているような風潮がありましたが、マイケルは白人音楽の壁を壊し、黒人音楽の可能性を広げました。ヴァン・ヘイレンの参加は、当時としては非常に画期的なことであり、音楽業界に大きな衝撃を与えました。その象徴的な出来事として、ポール・マッカートニーとのコラボレーションが挙げられます。「Say Say Say」を聴いてみましょう。(楽曲再生)石原:2人は非常に仲が良く、様々なエピソードが残されています。しかし、その後、楽曲の著作権を巡って関係が悪化してしまったのは残念です。ポールはマイケルにたくさんの曲の著作権を見せたのですが、マイケルは「自分が好きな曲を全部買いたい」と言い出し、本当にビートルズの楽曲を買い集めてしまったそうです。ポールはそれを良く思わず、2人の関係は終わってしまいました。ビジネスと友情は別、ということなのでしょうか。この頃から、マイケルは音楽ビジネスに興味を持つようになり、様々なことに首を突っ込むようになっていきます。マイケルは、単なるアーティストとしてだけでなく、ビジネスマンとしても才能を発揮しようとしていたのかもしれません。ペプシCM撮影中の事故と変化石原:1984年、「スリラー」の大成功後、マイケルは時代の寵児となり、ペプシのCMに出演します。CM撮影中、火花が近くで爆発し、マイケルの頭に引火してしまいます。この事故で頭に火傷を負い、皮膚移植をすることになりました。酷い痛みのため鎮痛剤を常用するようになり、そこからマイケルは変わってしまったと言われています。常に痛みを抱え、頭を隠しているという意識が、その後のマイケルにつながっていったのかもしれません。ペプシとの契約は、マイケルにとって大きな収入源でしたが、同時に大きな災いをもたらしたとも言えます。ペプシは事故の賠償金を支払いましたが、マイケルは全額を火傷から復帰する協会に寄付しました。この事故をきっかけに、マイケルは人前でサングラスをするようになり、少しずつ変わっていってしまいます。マネージャーや兄弟とも疎遠になり、母親以外は誰も入れない、自分の殻に閉じこもるようになってしまいました。マイケルは、事故の後、心に大きな傷を負い、孤独感を深めていったのかもしれません。"We Are the World"への参加石原:その後、マイケルは「スリラー」と「BAD」の間に、「We Are the World」に参加します。この楽曲は、マイケルとライオネル・リッチーが共同で作曲し、クインシー・ジョーンズがプロデュースしました。マイケルはほぼ自分が作曲したにも関わらず、ライオネル・リッチーの名前が大きく出ていることに不満を感じていたそうです。マイケルは、自分の才能が正当に評価されていないと感じていたのかもしれません。「We Are the World」は、当時の音楽業界を象徴するプロジェクトであり、MTV時代、そして音楽業界に夢とお金があった時代を象徴する出来事だったと言えるでしょう。この曲は、世界中のアーティストが集まって歌うという画期的な企画であり、大きな話題を呼びました。ここまでのまとめモータウンとの契約解除からソロ活動の本格化、クインシー・ジョーンズとの出会い、そして「スリラー」の大成功までを振り返りました。スターダムを駆け上がっていくマイケルでしたが、その裏には様々な苦悩や葛藤があったことが分かります。次はいよいよ「BAD」の時代に入ります。「BAD」:変貌と葛藤、そして新たな時代へ石原:この後、マイケルはクインシー・ジョーンズとの三部作の最後となるアルバム「BAD」をリリースします。BADは、スリラーに続く作品として大きな期待が寄せられていましたが、制作には長い時間がかかりました。だんだんクインシー・ジョーンズも手に負えなくなった、というような話もありました。マイケル自身も「あれもやりたい、これもやりたい」という感じで、なかなか完成しなかったという話です。僕は当時中学生だったんですけど、CDに変わったタイミングだったので、一番最初に買ったCDがBADでした。キンキラキンのジャケットで、「新時代が来た」みたいな印象を持っていました。今思えば、BADっていうのは過渡期のアルバムだったのかもしれないですね。結局BADは劇的な売り上げを記録したものの、スリラーほどのインパクトはありませんでした。音楽業界も変わってきて、マイケル自身も変貌を遂げようとしていた時期だったんだと思います。整形疑惑、イメージの変化、そして高まるプレッシャー石原:BADの頃から、徐々にマイケルは変わっていきます。世間的には整形疑惑が持ち上がったり、後日談的な分析もいろいろ出てきたりしました。ヒップホップが台頭し、新しい音楽が前時代の象徴的なものを標的にすることがありました。整形だったりとか、そういうのが標的にされがちになってしまったんです。本当にそうなのかは分からないですけど、そういうイメージがつきまとうようになってしまって。ミュージシャンとして正当に評価されなくなるというか、ダンスで見せる要素が増えてきました。音楽的な面だけでなく、視覚的な要素もどんどん過剰になっていった時期だったと思います。スムース・クリミナル:ベースラインとダンスの融合石原:Smooth Criminalのベースラインについてですが、マイケルの場合、曲の作り方が、もうすでに作ってる段階から、どんな踊りにするか、どんなMVを、どんなステージを見せるのか全部見えてからやってる人なのかもしれないですね。当時そういう作り方をしている人が見当たらなかったので。全部が一体的になっている。曲だけとか、これあとダンス考えよう、ステージ考えよう、みたいな作り方ではない。だから時間がかかるのだろうなと。常に、見えている世界が違うんだと思います。当時のマイケルは無敵状態だと思っていたと思います。ジャネット・ジャクソンの台頭:妹との比較石原:この後、時代が変わってくると言ったんですけど、新しく台頭してくる中に自分の妹がいる、ジャネット・ジャクソン。ジャクソン5でもジャクソンズでも入ってなかったし、ほぼ末っ子なんですけど、そのジャネットがマイケル・ジャクソンの妹っていう形でデビューしたんだけど、それが予想より良くて独り立ちをしてしまうという。安室奈美恵がいるじゃないですか。安室奈美恵ってこの流れなんですよ。要はダンサーがボーカルグループの礎を作ったのはジャネット・ジャクソンのリズムネーションですね。女の子たちが集団で振り付けを決めて、一糸乱れぬ動きを追求する。もちろんジャネットも素晴らしいアーティストです。ダンス:振り付けとフィーリングの違い石原:マイケルは、フィーリングなんです。振り付けが決まっているのか、フィーリングの振り付けなのか、結構違います。フィーリングのやつはアドリブができる。フィーリングのやつは、兄弟でも同じようなものがあるし。でも簡単なのは振り付け重視です。みんなができる。ニュージャックスウィングが台頭してきて、テディー・ライリーとか、新しいものが出てきて、そういうビートがちょっとマイケルがやってるビートと違うじゃないですか。だんだん感覚が変わってきて。でもこれちょっと見てほしいな。スーパーボウルに出演した時の映像。(映像再生)スーパーボウルでのパフォーマンス石原:これもちょっと面白いんですけど、いろんな世界のダンスを取り入れていて、アメリカンダンスだったり、中東のダンスだったり、面白い構成です。ブラック・オア・ホワイトでギターを弾いていたのがガンズ・アンド・ローゼスのスラッシュです。こんな感じで、ダンサーとしてのマイケルっていうところに、ダンス雑誌を出していたので触れてみようかなと思うんですけど、単純にこのまとめた映像があったので。ダンサーとしての影響:ジェームズ・ブラウンとその他石原:ダンサーとしてのマイケルのルーツは、ジェームス・ブラウンが元祖です。完全に。ダンサーとしての影響としては、ロボットダンスをやってたアンダーグラウンドのストリートダンサーなど。ちょっとマイケル流にアレンジして、名前をつけたりとかしてました。ライブパフォーマンス:肉体性とフィーリング石原:やっぱりフィーリングで動く人なんだなと思うのは、僕が大好きな曲でHuman Nature。日本でやった横浜で1987年にやったこれ。見てて気持ちいい動きを全部やってくれる。多分僕、ロックミュージシャンとか共通してるのって何かなと思うと肉体性なんです。肉体を感じさせる人って、あんまり意識しないですけど、イギー・ポップだって体でかいじゃないですか。マイケルが全て当てはまるとは言えないですけど、肉体をすごい感じました。見てると気持ちいい、音楽と一緒に身体が動くみたいな感じです。別にプリンスみたいにちっちゃくても肉体性がある。肉体性を感じさせるかどうか。女性からしてみたらすごいセクシーだなと思うかどうかもあるんですけど。それがない音楽はすごくつまらないです。彼は動くから、パフォーマンスが余計肉体で見せているというのがあるんです。ケント・モリとの出会いとワールドツアー秘話石原:ダンス雑誌をやってる時に、日本人バックダンサーのケント・モリが活躍されていて。YouTubeで見つけられて、全世界ツアーに参加することになった。日本人の起用が決定した、みたいな。単身でマイケルのバックダンサーになりたいって名古屋からアメリカにやってきて、満足にレッスンも受けられない中、自分のフィーリングでやったらそのオーディションに合格した。当時ニューヨークのマディソンスクエアガーデンで、マドンナのバックダンサーをやるっていうので、ケントを取材に行ったんです。横にいた日本人で、すごい目つきの鋭い子がいて、それがケントでした。要は、マドンナのダンサーでワールドツアーを1回こなして、そしたらマイケルがツアーを始めるっていうオーディションがあるから、世界中からダンサーが呼ばれ、そこでケントは「夢が叶う。マイケルと一緒に踊れるんだ」っていうので、もう本当に大喜びだったらしいんです。ケントは集団で踊る中で、納得する踊りができなかった。他のダンサーは次に進んでいくんですが、ケントは動かなかったりするんですよ。「いやもう一回やらせてください」っていう風に思っても、もうしょうがねえなって感じで。それをマイケルが見てて、映像を見てて「これは面白いな」ってなった。マイケルは当時いろいろアーティストを抱えてたりとか、いろいろ慈善活動をやっていたりとかしていて、ソロコーナーっていうのをケントに作ってくれたんですよ。マドンナは優しい。クインシーも優しい。でもミュージシャンからも尊敬されていて。マイケル・ジャクソンの作曲法:独創的なスタイル石原:マイケル・ジャクソンの作曲法について、楽器はやらないんですよね。譜面もかけない。要は子供の頃から一流のミュージシャンがいるじゃないですか。周りにコードチェンジにアレンジしてくれる人がいる。だから自分は自分の頭の中にあるメロディーを伝える。道具に使われないようになるやり方っていうのがあるかなと思います。今は曲ってギターを弾きました、DTMをいじりました、なんだかんだできちゃうじゃないですか。それっぽくなっちゃうじゃないですか。そこでなんとなくなったから、これでいいやって満足しちゃうものと、マイケルの発想っていうのは、スピリチュアルなもので内的なものなんだって結構違いますよね。道具を使ってそれなりになったっていうのと、自分の中から湧き上がって作った、これがキャッチしたもので作るって全然違うじゃないですか。もしかしたらマイケルは今生きてたら、AIをうまく使ったかもしれない。AIを正しく使う、目的があるから、それがなくならないからAIも使いこなせる。これからの音楽がそれはすごく重要ですけどね。やっぱりいろんなゴシップの標的になったり、有名になったりとかアーティストとしての価値が失われているというところはあると思うんですけど、それを僕も今回調べて皆さんと共有する中で感じるものがあったんじゃないかなと思います。人間性:慈善活動と愛石原:いろんな後年、児童虐待とかいろんな噂ありましたけど、間違いなく慈善家だなと思いました。ものすごい巨額な寄付をしてたんですよ。もう本当に数えきれないような。マイケルの推定生涯収入、これ推定なんですけど2000億円と言われていて、その中で寄付したのが確実な数字で500億円。1/4寄付です。あとプリンス、ライバルと言われてた人が、インタビュアーがふざけて「マイケルと殴り合いしたらどっちが勝つと思われますか?」みたいなこと言われたらしいんですよ。プリンスは「マイケルのことをリスペクトしてるからこんなことはしないよ。マイケルは愛の人だから」と答えた。周りが馬鹿にしてるだけで。要は、天上人にしか分からない感覚っていうのがあって、よく売れてめっちゃ売れると世界平和を願い出すみたいなことがあったじゃないですか。それってなんか胡散臭いなとか本当に好意なのかなとかそういううがった見方をしちゃうんですけど、なんか色々このマイケルの足跡を見ると本当にそうなんだな。本当に世界平和、ラブアンドピースの世界を目指してるんだなっていうのが。愛の人なんだなっていうのが分かるかなと思って。最後の曲:Love Never Felt So Good石原:最後にとっては、僕が大好きなこの曲で決めたいなと思ったんですけどLove Never Felt So Good。(楽曲再生)ディスカッション:音楽の本質と個性の重要性参加者B:楽器やらない人の言い方、そっちの方が伝わるんです。楽器で言ってもらった方がイメージも違います。ダンサーでもすごいいい演出家は、みんながどこに行って何を見つけているかと想像させるんです。それを共有する。大草原に行って、私の中で踊っているのが何を考えないといけないかというか、自分でも違うから見え方で変わるじゃないですか。伝わり方で変わるじゃないですか。そこが見落としがちというか。実はそこが一番大事なんです。イメージがある。それを徐々に形にしていく。要は形が作れちゃったら、形を作っちゃってからイメージを後付けする。最近出てきたのはニュージーンズ、やっぱりああいう人たちって自由に踊ったりするんですよ。参加者C:やっぱりそういう方が人の心に響くんだよね。やっぱりこういう風に気づいてやる人はいるんじゃないかな。そのフィーリングとかでもそういうのって約束がされてないから怖いんですよね。保証がないじゃないですか。打ち合わせがないと何が出るかわからないじゃないですか。だからビジネスとしては怖いですよね。マイケルみたいに絶対的にやってくれる人がいたら任せられますけど、天才みたいなね。誰でもできないですよね。ここはアドリブでとか出たとこ勝負で、多分昔の自由な時代はそれが面白かった。それもありだったと思うんですけど。全部今コントロールして、コントロールしてるから何もサプライズとか事故が起こらなくなってると思います。例えばその照明一つにしても、振り付けに合わせて照明がプログラミングされてるんじゃないですか。完全にダンサーがアドリブになっちゃうと照明さんも困っちゃうそうですよね。だからある程度約束のある中でのアドリブだと思います。ここから動かないでとかだいたいこんな動きしてねとか。ジャズなんてまさしくそうで、マイルス・デイビスがやっていたようなものとかはかなりフリーフォームじゃないですか。それが許されてるフォーマットだったからそれを楽しむ感性もあったわけで。今はそういう感性がなくなりました。予定調和でいいんですよ。石原:はい、というところでございます。いい時間でした。見直すところがこの一時間半であったんじゃないかなというところで、最後に感想をお願いします。参加者A:フィーリングと、本当は訴えるみたいな、周りにその影響してるところとも伝わって、本当に変化してるんだな。そういう人のいろんな、多分アーティストさんがいる中で特別なことなんだろうな。エゴが強い人だったわけでもあるじゃないですか。エゴというか向上心というか、すごいストイックにやってたし、兄弟の中でもミュージシャンの中でも一番になった存在だったとは思うんですけど、それがなかったら多分ここまで行かなかったと思うんですよね。より美しく見せたいから整形をしたんだろうし、そのエゴが自分の身を焼き尽くすということはいろんな世界でもあるんですよ。とんでもないエネルギーを持ってたときだから、それを自分で飼い慣らすことができなくなっちゃったというのが、僕はさっき言ったペプシの事件が結構ポイントだったのかなと。自分でいられなくなっちゃったっていう、隠さなきゃいけなくなっちゃったとか、痛みを背負うようになっちゃったりとか。参加者D:こうやって年代別に見てきて、グラデーションでマイケル自身が変わっててるっていうのと、あとはやっぱりなんか時代には取り入れてるけど時代にはなんか抗ってる感じで、ジャネットのやつは見て取り入れるけど俺だったら違うかなみたいな表現してみたいみたいな。すごい葛藤が多分自分の中にめちゃくちゃあったかもしれない。時代によってラップ取り入れたり、いろいろ取り入れたりするんだよね。でも自分なりの表現を探して、なんか途中からミュージシャンを超えた存在になっちゃうんだから。でもミュージシャンとして評価されたいっていうのはずっとあったんだけども、その葛藤があったのかな。まともに俺の音楽聞かれてないみたいな。それはあんな派手なビデオとかになればそういう風になっちゃうと思うんだけど、でもミュージシャンとしてもとても優れたアーティストだったってのが分かるじゃないですか。それが音楽だけじゃなくて、その身体、ダンス、視覚効果まで含めてこれだけ音楽性を追求してた。葛藤は、全てを叶えているような人でももっともっとっていうのがあったんでしょうしね。石原:いい時間でした。好きなアーティストを話してて幸せですね。ダンサーとしてのマイケルは、自分の中で憧れの存在なのかもしれないですね。偉大な人だったなっていうのは、この世で一番素晴らしい振り付けはSmooth Criminalだっていうダンサーもいるくらいです。ダンサーの人がこう言うんですよ。ダンサー目線で言うとこうなんだけど、一般目線だと違うよねっていう二つの見方があるんですけど、でもそれって結局中途半端だなと思うんですよ。どっちにせよ、もう突き抜けてしまえば一緒になる。玄人目線もお茶の間目線もダンサー目線も一緒なんですよ。マイケルはどちらからも認められるじゃないですか。要は中途半端だと、一般の人には伝わらない職人芸なだけか、一般の人が楽しめるだけか。でも両方を満たしている。マイケルのダンスは、動きが本当に完璧にできるじゃないですか。機能的なデザインと同じで、マイケルのダンスもこの曲に対して、このメッセージに対して一番適切な動きをしている。それはすごい自信がないとできないじゃないですか。参加者:感銘を受けました。予想外の部分で、今日は音楽について考える会でしたけども、途中からは音楽だけよりも芸術全体、マイケルという一人の天才が芸術にどうアプローチしたかっていうのが分かりました。石原さんの解説がすごい刺さる部分だった。例えば、ダンスでの振り付けで踊る人とフィーリングで踊る人っていうのは、私は素人なので正直区別というか分類の仕方があるんだなと。その振り付けする時にイメージを伝える時に言葉を使ってるっていうのは意外でしたね。その大草原のイメージっていうのは。私は言葉の人なんだけども、音楽の世界とか踊りの世界とかっては言葉って多分無力なんじゃないかなっていう風に思ってた部分があって。でもなんだろう、プロの一番一流の世界で最後にイメージを伝えるときに、振付家とかも言葉でイメージ伝えてるんだなっていう、それは言葉の人間としてすごい勇気づけられたっていうか。言葉もまだ音楽の世界や踊りの世界で必ずしも無力っていうわけじゃないんだなっていうちょっと励まされた気がしますね。そういう部分で今日はすごく感銘を受けて、とてもいい時間をいただきましたありがとうございます。石原:言葉、邪魔な時もあれば有効な時もあると僕も思います。その人の感性を開かせるために適切な言葉を授けることができれば、その人の中で色んなものが開いていく。本当に一流が一流になれば、スキル的な技術的な言葉ではなく、その人の中の何かを開かせるための魔法の言葉をマイケルが言うわけじゃないですか。「君はもっとできるよ、自信持ってやれよ」みたいな。そういうね、語りかけてるマイケルのシーンとかよく見るんですけど、This Is Itでもギターの女の子にもっと自信持ってやれみたいな感じでけしかけてたりとか。人の潜在能力を引き出す言葉だったり、言葉を超えたバイブレーションを開かせて、それが周りにいるミュージシャンだけじゃなくてファンだったり、マイケルの音楽に触れた人も。僕はスリラーを見てダンスをやろうっていうインスピレーションを持ったように、いろんな人の可能性を多分開かせた。新しい世界を見せた。僕の世代のダンサーとか、マイケルでダンスを始めた人に対してこれだけ影響力を与えたから、世界一有名な人。当たり前です。神様にもっと近づいた人だと思います。キリストが磔にあってなくなったように、ああいう形でなくなって、また残したものもかなり大きいですよね。自分らしく生きることであったりとか、ものづくりに対する考え方だったりとか。完璧な人じゃなかったから、だからああいう最期を迎えてしまったのかもしれないんですけど、そういう完璧じゃないからこその魅力。ものすごい弱さを抱えている人でしたよね。それは自分の小さい体に、有り余るイメージ。天から降りてくるものを自分の小さな体で表現しなきゃいけなかった。それは何というか天の試練みたいなもの。最後は50歳という年齢でもあって、限界が来ちゃってた。一番幸せだったのはジャクソン5の時なのかなっていう。兄ちゃんたちの後ろで、とにかく才能を発揮すれば、どんどん世界が開けていくっていう時代じゃないですか。最初に言った通り友達がいなかったから。マイケルが亡くなった時のスピーチとかね、すごい兄弟の感動的なスピーチしてましたけど、兄弟からは本当に愛されて。お父さんも厳格な人でしたけど、マイケルを作り出すために必要な人たち、登場人物だったのかもしれない。映画みたいな人だから。ミュージカルもありますよね。やっぱり父親との関係性かなっていう。父親が歪ませたような気はしました。でも、マイケルの才能に一番最初に気づいたのも父親なので、必要な存在だった気がする。あとはミュージカルで感じたのは、マイケルとスタッフとの間に言葉がもう通じないんですよね。非常に高度なイメージでマイケルは言葉で伝えようとするんだけども、演出家たちももうついていけない、理解できない。なのでどんどん孤独が深まっていくというか。This Is Itでもオルテガさんという演出監督とのやりとりとかで、後ろにモニターがあってそのタイミングでマイケルが動き出すリハーサルをしている時に、「後ろに見えないから前にモニター出そうか」みたいな話をしていて、マイケルは「大丈夫、感じるから」って。第六感というか、そういうことが理解できないわけです。「何なのそれって」聞かれちゃう。だからそういうところでも苦しんだかもしれない。圧倒的な孤独を抱えていましたよね。