鎌倉・御成通りにあるNIHO kamakuraで3月29日、「豊かな社会とは - インド最北部 ラダック。持続可能な未来を目指し、ローカルに生きる」と題したイベントが開催されました。主催は同じく御成通りに店を構える民族アートのセレクトショップcloridasの山本康子さんとNPO法人ジュレーラダック。この日は同NPO代表のスカルマ・ギュルメットさんをお招きし、ラダック料理「スキュー」作りの体験、映画「ラダック 氷河の羊飼い」の鑑賞、そしてトークと懇親会が行われました。ラダックで生まれ育った人と一緒に、ご飯を作って、現地の映画を見て、その感想を語り合う。現地での暮らしや悩みを、ラダック人の口から直接聞く、そんな濃密な時間でした。皆さんにもぜひいずれラダックの映画や現地を見てもらいたいと思いつつ、今回の記事ではスカルマさんの現地の生活や課題に関する発表をご紹介します。-インドの北のヒマラヤ山脈に囲まれた標高3500〜5600mの山岳地帯に位置するラダック。厳しい環境の中で助け合いながら地球に優しい生き方をしてきた人々が、近代化やグローバル化にどう向き合っているのか。スカルマさんの語りから、私たちの暮らしを見つめ直すヒントを探ります。知られざる辺境ラダック〜インドなのにインド人じゃない?「ラダックはインドの一番北方面にあります」とスカルマさんは地図を指さしました。日本の約6分の1の広さがあるものの、人口はわずか27万人。東京のある区の半分にも満たない人口密度の低さです。興味深いのは、ラダックの人々(ラダッキ)の多くがチベット仏教を信仰し、文化的にもインド人とは異なるアイデンティティを持っていること。「私たちの伝統、文化、言葉、見た目も人種的にもインド人とは全然別です」とスカルマさんは説明します。ラダックへのアクセスは、デリーから1時間ほどの国内線でレー(中心都市)まで飛び、そこから山岳地帯に入っていきます。かつては「自然の要塞」とも呼ばれ、5000メートル級の峠で外界から隔てられていたこの地域も、近年は観光客で賑わうようになりました。政治的には、2019年までジャンムー・カシミール州の一部でしたが、現在はラダック連邦直轄領となっています。この変化は両刃の剣でした。州政府からの独立は彼らが望んだものでしたが、それによって誰でもラダックの土地を購入できるようになってしまったのです。「インド人がどんどん来て、土地やホテル、タクシー、バスなども彼らがやっちゃったら、私たちはどうするんだ」という懸念が広がっているとスカルマさんは語ります。13億人のインドの中で、27万人のラダック人はとても小さなマイノリティなのです。自然と共生する驚きの「衣食住」〜何もないところから全てを作り出す知恵ラダックの人々の暮らしで特に印象的なのは、自給自足の循環型生活です。「衣食住」のすべてを自然の恵みから得る知恵が息づいています。住居は周辺の土と日干し煉瓦で作られています。「家の全ての材料はここら辺から取ったものなんです」とスカルマさんは写真を見せながら説明します。土に水を入れて泥を作り、木枠で形を整え、約1週間乾燥させると煉瓦の完成。これを積み上げていくだけで家ができあがります。「日本だったらもう業者にお金を払って、最終的に鍵をもらって入るみたいな感じなんですけど」と笑うスカルマさん。彼の東京出身の友人がラダックに移住した際、この家づくりの方法に感銘を受け、「私も自分で家を作ります」と言って実践したエピソードも披露してくれました。衣類は羊やヤクの毛を使います。おじいさんたちは太い糸を、女性たちは細かい糸を紡ぎ、それを織って布を作る伝統が今も続いています。「ティグマ」と呼ばれる染色技術もあり、かつては地域の植物から色を取っていましたが、最近では化学染料も使われるようになったとのこと。食に関しては、農業を営む人と遊牧生活を送る人がいます。遊牧民はヤクや羊から乳を搾り、ヤギの皮でできた容器でバターやチーズを作ります。「物々交換の文化もありました」とスカルマさん。遊牧民は羊毛や塩を持って農村を訪れ、農家から穀物を得るという相互依存の関係があったのです。「何も捨てない」エコシステム〜トイレが肥料になる不思議な仕組み会場から驚きの声が上がったのは、コンポストトイレの話でした。ラダックの伝統的な家には、資源循環のサイクルに組み込まれたトイレがあります。二階建ての家の二階にトイレがあり、排泄物は下の部屋に落ちていきます。そこに灰などを加えながら熟成させ、最終的には貴重な有機肥料として畑に運ばれるのです。「これはもうどこにでもありますね、伝統的な家であれば、必ずあります」とスカルマさん。水を使わないこのシステムは、乾燥地域に適した合理的な設計です。また、家畜の糞も重要な資源で、乾燥させて燃料として使ったり、肥料として畑に還元したりします。こうした循環型のシステムにより、化学肥料や外部からのエネルギーに頼らずとも生活が成り立つのです。「水車による粉挽き技術も素晴らしいですよ」と説明するスカルマさん。山から流れる水の力で石臼を回転させ、小麦や大麦を粉にします。仕組みの中に小さな木片があり、これが石に当たって振動を生み出し、穀物が少しずつホッパーから落ちるよう調整する巧妙な設計になっています。この粉は「ツァンパ」と呼ばれ、バター茶と混ぜて飲む伝統食になります。映画の中でも羊飼いの女性がこれを飲む場面があったと、スカルマさんは指摘しました。スピリチュアリティと日常が融合する暮らし〜目に見えない存在への思いやり物質的な循環だけでなく、精神的な豊かさも大切にしているのがラダックの人々です。彼らの多くはチベット仏教を信仰し、五体投地や「オム マニ ペメ フム」という真言を唱えるなどの実践が日常に溶け込んでいます。会場からの質問がきっかけで、お香を焚く儀式について詳しく語ってくれました。毎朝、家畜の糞を燃やし、その上に山から採ったジュニパーの葉を乗せてお香とします。このお香を持って、仏間から始まり家中の部屋を回るのです。「なぜそれをするのですか?」という質問に、スカルマさんは興味深い回答をしました。「私たち人間だけじゃなくて、その目に見えないスピリットの方々のためです。体がないから直接食べ物は食べられないけど、匂いは嗅ぐことができる。それで満足してもらうんです」この儀式は家族の誰もが行うもので、子供でも担当します。「忘れないようにやりますね。家によっては誰かが必ずやるというのもありますが、その人がいないときは、必ず誰か他の人がやります」こうした日常の中の信仰実践には、「生きとし生けるもの全てが幸せになりますように」という願いが込められているそうです。自分だけでなく、すべての存在への思いやりを育む精神性は、持続可能な社会の基盤となる価値観かもしれません。伝統と近代のはざまで〜バランスを求める現代のラダック今回の発表のタイトルには、プラネタリーヘルスという言葉が入っていました。地球という惑星全体での健康・健やかさを大事にしよう、という近年語られる言葉です。「ラダックの暮らしがプラネタリーヘルスだなって思ったきっかけは?」という質問に、スカルマさんは興味深い回答をしました。「多分、私が外に出てきたから気づいたんです」と彼は語ります。若い頃は故郷の価値に気づかず、「当時は若くて、社会が変わる時期で、すごく混乱していました」と振り返ります。転機となったのは、ヘレナ・ノーバーグ=ホッジという研究者の著書『懐かしい未来』との出会いでした。スカルマさんが現地で留学にまつわる仕事をしていた頃、ヘレナさんもラダックに滞在していたそうです。しかし当時は、スカルマさんご自身も近代化への憧れが強く、その価値に気づけなかったと言います。「日本に来てから、逆にラダックについて皆さんとこういった会話をする中で『あの暮らし、とても大事だな』と気づきました」と彼は説明します。実際、バランスの難しさも率直に話してくれました。村の人々からは「あなたたちは近代的な生活をしているのに、なぜ私たちだけが昔の生活を続けなければならないのか。私たちにもテレビやスマホが欲しい権利がある」という反発の声も上がるそうです。彼が強調するのは「バランス」の大切さです。「ロマンティックに理想化するのは現実的ではない」と語るスカルマさん。「みんなで正直に、どういう実践があるか一緒に考えるしかない。一方的に『これが正しい』と言うのは違う」と、対話を通じた持続可能な未来の模索を提案していました。医療から政治まで〜多様な視点で知るラダックの今質疑応答では多岐にわたる話題が飛び出しました。特に印象的だったのは医療についての話です。ラダックでは伝統医学(アムチ)と西洋医学が共存しており、患者が自分で選べるシステムがあるそうです。「病院に行けば西洋医学に行くか、それとも伝統医学に行くか、お医者さんが別々にいるんですね」と説明するスカルマさん。女性も伝統医学を学ぶようになり、選択肢が広がっているといいます。政治状況についても質問が出ました。ラダックには今も王族が存在するものの、「パワーは何もない」状態だとスカルマさんは説明します。日本の天皇のような存在で、宮殿に住んでいるものの、政治的な影響力はないそうです。また、インドの一部になった歴史的経緯も語られました。「もしブータンのように、ラダック王国がその時まであったら」独立国になっていた可能性もあったというスカルマさんの言葉には、複雑な歴史認識が垣間見えました。現在の課題として、ソナム・ワンチュクさんという教育者によるハンガーストライキなどの非暴力的な抗議活動についても触れられました。インド憲法の少数民族保護条項(第6附則)の適用を求める運動が続いているとのことです。日本とラダックをつなぐ架け橋に〜スタディツアーと相互理解の可能性トークの終盤では、スカルマさんがNPO法人ジュレーラダックとして取り組むスタディツアーについても紹介されました。9月に予定されているツアーでは、ディプリンという村を訪れる予定だそうです。「ここはまだ道と繋がってないんですね、実は。半日歩かなきゃいけない」と説明するスカルマさん。早稲田大学がラダックと関わって50年となる記念のプラネタリーヘルスサミットも予定されているとのこと。日本とラダックの交流は、単なる観光ではなく、持続可能な未来に向けた「共同探求」として位置づけられているようです。「懐かしい未来」の著者ヘレナさんも参加予定だそうで、関心のある方はぜひ参加してほしいとスカルマさんは会場に呼びかけました。鎌倉の街で、インド北部の辺境の地ラダックの話を聴く——この一見ミスマッチな組み合わせが、実は深いつながりを感じさせました。持続可能な暮らしを模索する鎌倉の人々と、伝統と近代のバランスを求めるラダックの人々。地球の反対側にありながら、それぞれ同じように豊かさや発展のあり方というテーマに向き合っている、大事な仲間かもしれません。スカルマさんの語る「バランス」という言葉。御成通りという観光客もたくさん通る場所で様々な伝統的な民族アートを扱うcloridasの山本さんの活動。これらは、グローバルとローカル、伝統と革新のバランスの上に成り立っているのかもしれません。豊かさとは何か、改めて向き合おうとしているラダックに、鎌倉も、何かできることがあるでしょうし、きっとたくさん教えてもらうこともありそうです。ご興味のある方はぜひシュレーラダックの活動を見て、ツアーなどをご検討してみてください。映画の上映も希望者を募っています!※本記事は自動での文字起こし・記事化を用いているため、一部誤りが含まれる場合がございます。↓参考NPO法人シュレーラダックColoridas<以下は、より詳細な内容です。同じ内容をより詳しく記載しています。>ラダックを知る:持続可能な暮らしから学ぶことインドの辺境ラダック:地理と歴史的背景ラダックはインド最北部に位置する地域で、ヒマラヤ山脈に囲まれた標高3500〜5600mの高地です。サイズは日本の約6分の1ほどの広さがありますが、人口はわずか27万人ほどしかありません。この人口密度の低さは、極端な高地環境と厳しい気候条件に起因しています。冬にはマイナス30度にもなる厳しい環境のため、歴史的に外部からの侵入が難しく、独自の文化を保持してきました。ラダックに行くには、デリーからレー(ラダックの中心都市)まで1時間ほどの国内線で飛行機を利用します。レーの空港は岩山の間に位置し、到着後は岩山の下に広がる街へと向かいます。インダス川沿いには集落が点在し、6000m級の氷河をいただく山々が遠くに見える壮大な景観が広がっています。近年は観光開発が進み、街の風景も変わりつつありますが、少し離れた村々では今も伝統的な暮らしが続いています。もともとジャンムー・カシミール州の一部でしたが、長年ラダックの人々は州政府から適切な支援を受けられないという不満を抱えていました。そこで中央政府との直接的なつながりを求める運動が起こり、2019年にラダック連邦直轄領として分離されました。しかし皮肉なことに、この政治的変化によって新たな問題も生じています。かつては地域の土地所有に関する法的保護があったものの、連邦直轄領になったことで、誰でもラダックの土地を購入できるようになってしまいました。歴史的には、ラダックの王国があったものの、かつてのインドの王(ドグラ朝)との戦争で負け、その後はジャンムー・カシミール藩王国の一部となりました。インド独立の際、藩王が「私はインドに行きます」と宣言し、その領土の一部としてラダックもインドに含まれることになったのです。スカルマさんによれば、もしその時ラダック王国が独立していれば、ブータンのような独立国になっていた可能性もあったといいます。ラダック人の文化とアイデンティティラダック人(ラダッキ)は主にチベット仏教を信仰しており、文化的・民族的にもインド人とは異なるアイデンティティを強く持っています。彼らの特徴は、言語、伝統、外見に至るまでチベット文化との強いつながりを示しています。スカルマさんによれば、インド人がラダックに来ると、彼らを「インド人」と区別して呼び、自分たちは「ラダッキ」というアイデンティティを持っていると説明します。言語面では、ラダック語を基本的に話し、近年では若い人を中心にヒンディー語や英語も話せるようになっています。この言語の多様性は、観光業の発展や外部との交流増加に対応するためでもあります。宗教的には主にチベット仏教を信仰していますが、一部の地域ではイスラム教徒も暮らしています。スカルマさんの家の近くには、約1キロ離れたところにモスクもあるそうです。彼によれば、1840年代に一部の地域で強制改宗があったものの、現在は宗教間の対立はなく、平和的に共存しているといいます。また、インド全体で家族計画(人口抑制政策)が推進された際、ヒンドゥー教徒やキリスト教徒、仏教徒はそれに従ったのに対し、イスラム教徒はあまり従わなかったため、一部の地域ではイスラム教徒の人口比率が増加しているという現象も説明されました。ラダックの若者たちの中には、教育や就職の機会を求めてデリーや他の大都市、さらには海外へと出て行く人も少なくありません。しかし、スカルマさんによれば、多くのラダック人は故郷への強いつながりを感じており、「戻りたい」という気持ちが強いといいます。このアイデンティティと故郷へのつながりの強さが、彼らの文化継承にも影響しています。自給自足の循環型生活:ラダックの伝統的な「衣食住」ラダックの人々は、自然と密接に結びついた持続可能な暮らしを何世紀にもわたって営んできました。彼らの「衣食住」のあり方は、限られた資源を最大限に活用する知恵の結晶です。伝統的な住居と建築技術ラダックの家は土と日干し煉瓦で作られており、周辺から材料を調達します。日干し煉瓦の製造過程は非常に合理的で、周辺の土に水を加えて泥を作り、それを木枠で作った四角い型に入れます。これを取り出して約1週間ほど天日で乾燥させると、硬い煉瓦ができあがります。砂が多い土では崩れやすくなるため、より細かい粘土質の土が好まれます。これらの煉瓦は、さらに泥をモルタル代わりに使って積み上げていきます。また、山から石を集めて積み上げ、間に泥を詰める工法も使われています。この方法が成功するのは、ラダックが極めて乾燥した気候(年間降水量約80ミリ)だからこそです。ただし、近年は気候変動の影響で大雨が降ることもあるようですが、基本的にはこの工法で家が長持ちします。家を建てる際には、コミュニティ全体で協力し、多くの労働力を出し合います。これは単なる建築作業ではなく、社会的な絆を強化する重要な活動でもあります。日本の住宅建設のように業者に頼み、最終的に鍵を受け取って入居するという概念はありません。スカルマさんは、東京出身の友人がラダックに移住した際、この家づくりの方法に感銘を受け、「私も自分で家を作ります」と言って実践したエピソードを紹介しました。遊牧民の仮設住居も巧みな工夫の産物です。彼らの住まいはヤクの毛で織った布で作られたテントで、簡単に解体して次の場所に移動できるよう設計されています。遊牧民は一般に月ごとに移動先を変え、季節に応じてより良い牧草地を求めて移動します。各遊牧コミュニティには伝統的な移動範囲があり、その中で循環しながら暮らしています。コンポストトイレと資源循環ラダックの家屋に設置されている伝統的なトイレは、資源循環の観点から見ると非常に合理的です。通常、二階建ての家の二階部分にトイレがあり、排泄物は下の部屋に落ちていきます。この部屋には窓があり、そこから灰などを定期的に投入して混ぜ合わせます。数ヶ月から1年ほど熟成させた後、それは貴重な有機肥料として畑に運ばれます。このコンポストトイレは、水を使わないため乾燥地域に適しており、廃棄物を資源に変える循環型のシステムとして機能しています。スカルマさんによれば、伝統的な家であれば必ずこのようなトイレが設置されているそうです。また、牛などの家畜の糞も乾燥させて燃料として使用したり、畑の肥料として活用したりします。衣料と染色の技術衣類に関しては、羊やヤクなどの家畜から得た毛を使います。おじいさんたちは太い糸を、女性たちは細かい糸を紡ぎ、それらを集めて織り機にかけて布を作ります。ザンスカール地方では「ティグマ」と呼ばれる染色技術があり、伝統的には地域で採れる植物や鉱物などの天然素材で染色していました。色彩豊かな織物は単なる生活必需品ではなく、芸術的表現や文化的アイデンティティの象徴でもあります。近年では、バザール(市場)で手に入る化学染料も使われるようになり、伝統と近代の融合が見られます。食と農業のシステム食に関しては、農業を営む定住民と遊牧生活を送る人々の2つの生活様式があります。農家は主に大麦や小麦などの穀物を栽培し、遊牧民はヤクや羊、山羊などの家畜を連れて季節ごとに移動します。遊牧民たちはヤクや羊から乳を搾り、バターやドライチーズなどの乳製品を作ります。伝統的な方法では、ヤギの皮を利用した容器でヨーグルトを攪拌してバターを作り、残ったバターミルクからチーズを作ります。これらの乳製品は保存が効き、栄養価が高いため、厳しい環境での生存に不可欠な食料となっています。両者の間では物々交換の文化が発達し、遊牧民は羊毛(カシミヤを含む)や塩などを持って農村を訪れ、農家から穀物を得るという相互依存の関係がありました。こうした交換は単なる経済活動を超えて、コミュニティ間の結びつきを強める社会的な機能も果たしていました。伝統的な技術と知恵の宝庫ラダックの人々は厳しい自然環境の中で生き抜くために、様々な伝統技術を発展させてきました。それらの技術は単純でありながら効果的で、現地の資源だけで維持できる持続可能なものばかりです。水車と粉挽き技術例えば、粉挽き用の水車は自然のエネルギーを巧みに利用した仕組みです。山から流れてくる水の力を利用して上部の石臼を回転させるこの装置は、外部からのエネルギー投入なしに機能します。仕組みの中で特に興味深いのは、水車が回転する際に小さな木片が石に当たって振動を生み出し、それによって穀物ホッパーから少しずつ穀物が落ちていくという仕掛けです。この微調整によって、均一な粉が生産されるのです。作られた大麦の粉は「ツァンパ」と呼ばれ、バター茶と混ぜて飲む伝統的な食べ物となります。これは映画の中でも登場していたものだと、スカルマさんは説明しています。この粉は各家庭で今でも作られており、伝統的な食文化の重要な部分を担っています。乳製品加工の技術遊牧民はヤクや羊などから得られる乳を用いて、様々な乳製品を作る高度な技術を持っています。ヤギの皮を使った容器の中でヨーグルトを攪拌し、バターを分離します。そのあとに残った液体からチーズを作るのです。このプロセスは無駄がなく、乳の栄養素を最大限に活用する方法です。特に保存性の高いドライチーズは、タンパク質やカルシウムの貴重な供給源となり、厳しい冬の間の重要な食料となります。このような保存食の製造技術は、食料を通年で確保するための知恵の表れです。スピリチュアリティと持続可能性の融合ラダックの人々の生活において、物質的な自給自足だけでなく、精神的・霊的な豊かさも重要な位置を占めています。彼らの多くはチベット仏教を信仰し、日々の生活の中に仏教的な実践が溶け込んでいます。日常に根付いた仏教実践彼らは五体投地(全身を地面に伏せて礼拝する方法)を行ったり、「オム マニ ペメ フム」という仏教の真言を唱えたり、マニ車(経文が書かれた円筒形の祈りの道具)を回したりする習慣があります。これらの行為は単なる形式的な儀式ではなく、内面の浄化と全ての生き物への慈悲の心を育むための実践です。特に冬の長い閑散期には、多くの時間を仏教の教えを学ぶことに充てます。厳しい自然環境の中で生きる彼らにとって、内面の平安と精神的な強さを培うことは生存戦略の一部とも言えるでしょう。スカルマさんは、仏教実践が「内面の幸せに生きるためにとても大事」だと強調しています。お香の儀式と家庭の信仰実践各家庭には仏間が特別に設けられており、そこを中心に日々の儀式が行われます。特に興味深いのは、毎日行われるお香を焚く儀式です。まず、家畜の糞を燃やして火種とし、その上に山から採集したジュニパー(杜松)などの葉を乗せてお香とします。このお香を持って、仏間から始まり、家中の全ての部屋を回ります。その後、大麦で作った団子(お供え物)に油や砂糖を加えて味をよくし、それをお香の火にかざして煙を出します。スカルマさんによれば、このお香の儀式には深い意味があります。人間だけでなく、目に見えないスピリット(精霊や神々)のためにも行うものだと言います。スピリットは体がないため直接食べ物を摂ることはできませんが、煙の香りを嗅ぐことはできる、という考えからです。この煙の香りによって、スピリットもまた満足し、幸せになるという信仰があるのです。この儀式は家族の誰もが行うことができ、子供でも担当します。家族の誰かが「私がやってくる」と言って自発的に行うこともあれば、特定の人が担当する家庭もあります。しかし担当者がいない時は、必ず誰か他の家族が代わりに行います。スカルマさんの姉の家では夜にも同様の儀式を行うそうです。この習慣が途切れることはなく、毎日継続されています。こうした毎日の実践の根底には、「生きとし生けるもの全てが苦しみから解放されて幸せになりますように」という願いがあります。これはラダックの人々の世界観を端的に表しており、自分たちだけでなく全ての生きものの幸福を願う慈悲の心が、日常生活の中に組み込まれているのです。現代化の波と直面する課題かつてラダックは5000メートル級の峠で囲まれた「自然の要塞」のような場所でした。この地理的隔絶が、彼らの文化や伝統が外部からの影響にさらされず、独自の発展を遂げる要因となってきました。しかし現代では、道路網の発達や空港の整備により、以前よりもはるかに接続性が高まっています。連邦直轄領化とその影響2019年に連邦直轄領となったことで政治的・法的な環境も大きく変化しました。スカルマさんによれば、連邦直轄領への移行自体は、もともとラダック人自身が望んだものでした。ジャンムー・カシミール州政府から適切な支援や権利が得られないという不満から、中央政府との直接的なつながりを求める声が高まっていたのです。しかし、皮肉なことに、この政治的変化によって新たな問題が生じました。最も大きな変化は、以前は法的に守られていたラダックの土地所有に関する制限が緩和され、誰でも土地を購入できるようになったことです。「インド人がどんどん来て、土地やホテル、タクシーやバスなどを買い占めたら、私たちはどうなるのか」という懸念が広がっています。人口13億を超えるインドの中で、わずか27万人のラダック人は極めて小さなマイノリティです。経済力も限られているため、自由市場の原理に任せると、彼らの土地や資源が外部資本に簡単に取り込まれてしまう恐れがあります。法的保護を求める運動現在、こうした状況を改善するため、インド憲法のSixth Schedule(第6附則)という少数民族保護条項の適用を求める運動が続いています。教育者であり環境活動家でもあるソナム・ワンチュクさんは、ハンガーストライキなどの非暴力的な抗議活動を行ってきました。彼はラダックからデリーまで徒歩で行進するなど象徴的な行動も起こしていますが、現在に至るまで要求は通っていません。開発計画への懸念インド政府は経済発展を促進するため、ラダックへのアクセス改善を進めようとしています。電車を走らせる計画や、冬季でも通行可能なトンネルを掘る構想があります。スカルマさんはこれらの開発計画に反対の立場です。「自然が厳しくても、その方が環境を守ることができる」と彼は主張します。地理的障壁があることで、観光客や移住者の流入が自然と制限され、環境への負荷が減るという考え方です。さらに懸念されるのは、ラダックの豊かな自然資源が外部資本によって乱開発される可能性です。鉱物資源や水資源などが、持続可能な方法ではなく、短期的な利益を優先して採掘される恐れがあります。特に水資源は氷河の融解水に依存しているため、気候変動と相まって将来的な危機が懸念されています。伝統と近代化のバランスを求めてラダックの若者たちの中には、教育や就職の機会を求めてデリーや他の大都市、さらには海外へと出て行く人も少なくありません。しかし、スカルマさんによれば、ラダックの人々は故郷への強いつながりを感じており、多くは何らかの形で戻ってくる傾向があります。これは彼らのアイデンティティがラダックの土地や文化と深く結びついているからでしょう。「懐かしい未来」との出会いスカルマさん自身も、若い頃は故郷ラダックの価値に気づかない時期があったといいます。彼が転機として挙げるのは、『懐かしい未来』という本や映画との出会いです。これはヘレナ・ノーバーグ=ホッジという研究者が1970年代からラダックで調査を行い、伝統的な生活の知恵と西洋的な「発展」がもたらす変化を対比させた作品です。スカルマさんは当時、ラダックで国際的なプロジェクトに関わっていた際にヘレナさんと出会いましたが、彼女の作品が公開された時には、その価値に気づかなかったと振り返ります。「当時は若くて、ちょうど社会が変わる時期だったから、混乱していた」と彼は語ります。ラダックでは農業中心の伝統的な生活から近代的な生活へと急速に移行しつつあり、若者はその変化の渦中にいました。彼が故郷の価値に本当に気づいたのは、日本など外国に行き、そこから見直した時だったのです。ロマンティシズムを超えた現実的アプローチしかし、伝統的な生活を守るべきだと一方的に主張することの難しさも、スカルマさんは率直に語ります。村の人々からは「あなたたちは近代的な生活をしているのに、なぜ私たちだけが昔ながらの生活を続けなければならないのか。私たちも人間として権利があり、テレビやスマホなど欲しいものがある」という反発の声が上がることがあります。特に最近ではスマートフォンの普及により、農村部の人々も外の世界の情報に簡単にアクセスできるようになり、物質的な豊かさへの欲求が高まっています。「昔は知らなかったけど、今は知らないことがない」とスカルマさんは説明します。こうした状況に対して、スカルマさんは「バランスが大事」と強調します。伝統的な生活を理想化するロマンティックな視点ではなく、現実的な対応が必要です。彼は「みんなで正直に、どういうプラクティス(実践)があるかをお互い一緒に考える」ことを提案します。つまり、伝統的な知恵の中から現代にも適用できる持続可能な実践を選び出し、近代的な便利さとどう組み合わせていくかを、コミュニティ全体で考えていく姿勢です。「こっち側から一方的に『これが正しい』というのはちょっと違う」というスカルマさんの言葉には、外部から理想を押し付けるのではなく、当事者主体で変化を考えていくべきだという洞察が含まれています。対話と相互理解の場このような対話の場として、早稲田大学がラダックに関わって50年となる記念のプラネタリーヘルスサミットがレーで開催される予定です。スカルマさんによれば、こうした機会に持続可能な未来に向けた議論が活発に行われるといいます。また、スカルマさんは9月に予定されているツアーについても触れました。このツアーでは、ディプリンという村を訪れる予定ですが、この村はまだ道路と完全には繋がっておらず、車で近くまで行った後、半日ほど歩かなければ到達できないそうです。しかし、このような不便さも含めて体験することが、真の意味でラダックの生活を理解する助けになるのです。医療と教育における伝統と近代の共存ラダックでは医療の分野においても、伝統と近代の興味深い共存が見られます。各村には「アムチ」と呼ばれる伝統医学の専門家がおり、チベット医学に基づいた診断と治療を行っています。この伝統医学は数千年にわたる経験と観察から生まれたもので、ハーブや鉱物などの自然素材を用いた薬、食事療法、生活習慣の改善などを組み合わせた総合的なアプローチを特徴としています。伝統医学の発展と女性の参画近年では、この伝統医学の価値が再評価され、より体系的な教育や研究も行われるようになりました。スカルマさんによれば、現在は女性も伝統医学を学び、実践するようになってきているといいます。これは、かつては主に男性が担っていた分野に女性が進出している例として、社会変化の一側面を示しています。患者中心の医療選択システム特に注目すべきは、病院に行った際に患者が西洋医学の医師と伝統医学の医師を自由に選択できるシステムです。両方の医学が競合するのではなく、対等な立場で並存し、患者自身が自分の症状や信念に基づいて選ぶことができるのです。「医療機関によってはみんなそれぞれで選んでいく」とスカルマさんは説明します。このようなアプローチは、双方の医学の長所を活かし、患者中心の医療を実現する先進的な試みと言えるでしょう。西洋医学の技術的な強みと、伝統医学の全人的なアプローチを組み合わせることで、より包括的な医療が可能になります。教育の変容と継承教育の分野でも同様の変化が見られます。伝統的には、子供たちは家庭や村の中で生活に必要な技術を学び、僧院では仏教の教えや文字の読み書きを学んでいました。現在では公教育システムも導入されており、子供たちは近代的な学校教育を受けながらも、家庭や地域の中で伝統的な知識や技術も学んでいます。スカルマさんが紹介したエピソードの中には、子供たちが山に行って家畜の放牧を手伝うという伝統的な活動も含まれていました。彼自身も子供の頃はそのような経験をしたといいます。このような実践的な学びは、教室での学習と並行して続けられているのです。ラダックの王室と政治構造質疑応答の中で、現在のラダックには王族が存在するのかという質問がありました。スカルマさんによれば、王族は今も存在しているものの、「パワーは何もない」状態だといいます。日本の天皇のような存在で、政治的な力はないものの、宮殿に住み、文化的な象徴としての役割を担っています。興味深いのは、王族が特定の祭りや儀式で重要な役割を果たすということもないという点です。王族が住んでいる村では彼らに敬意を表することもあるかもしれないが、ラダック全体としては「半分関係ない」状態だとスカルマさんは説明します。歴史的には、ラダックの王国が存在し、独自の政治体制を持っていましたが、19世紀の戦争でインドの藩王国(ドグラ朝)に敗れ、その支配下に入りました。インド独立時には、藩王がインドへの帰属を選んだため、ラダックもインドの一部となりました。スカルマさんは「もしブータンのように、ラダック王国がその時まであったら」自分たちで独立を選ぶことも可能だったかもしれないと述懐しています。これは「歴史のもしも」ですが、現在のラダックの政治状況を考える上で興味深い視点です。2019年の連邦直轄領化以降、ラダックには自治評議会のような組織が存在しますが、スカルマさんによれば「形的にはあるんですけど、全然足元の方にはもちろん全く力がない」状態だといいます。この限られた自治権という状況が、前述のような保護条項(第6附則)の適用を求める運動の背景となっているのです。国境地域としてのラダックの地政学的位置づけラダックは地政学的にも重要な位置を占めています。スカルマさんの説明によれば、北は中国、北東部はチベット(現在は中国の一部)、西側はパキスタンと接しており、まさに国境地域です。そのため、軍事的にも戦略的に重要な場所となっています。こうした国境地域であることから、インド政府はラダックのインフラ整備にも積極的です。しかし、スカルマさんはインドそのものに反感を持っているわけではありません。彼は「インド人が嫌いではないんですよ。インド好きなんですよ、どっちかというと。笑顔が大事です。インドは、他の隣の中国、パキスタンよりは間違いなく好きです」と語っています。ただし、現在の状況では「ちょっとインドに食われちゃうんじゃないかな、みたいな怖さ」を感じているとも付け加えています。これは純粋に文化的アイデンティティや伝統的な生活様式の保全への懸念からくるものと考えられます。ラダックと日本の交流:学び合いの可能性スカルマさんはNPO法人ジュレーラダックの代表として、ラダックと日本の間の文化交流を促進しています。彼が主催するツアーについても触れられました。9月に予定されているツアーでは、ディプリンという村を訪れる予定ですが、この村はまだ完全に道路と繋がっておらず、車で近くまで行った後、半日ほど歩かなければ到達できないそうです。彼は、ヘレナ・ノーバーグ=ホッジの『懐かしい未来』という本や映画の重要性も強調しました。この作品はラダックの伝統的な生活と近代化の影響を対比させ、持続可能な未来について考えるきっかけを提供するものです。スカルマさんによれば、この本は非常に人気があり、すぐに売り切れてしまうそうです。また、早稲田大学がラダックに関わって50年となる記念のプラネタリーヘルスサミットについても言及がありました。このような学術交流の場が、持続可能な未来に向けた対話の機会となることが期待されています。プラネタリーヘルスの視点からラダックを考える講演の中心テーマである「プラネタリーヘルス」(地球の健全性と人間の健康の相互関係)の観点から見ると、ラダックの伝統的な生活様式には多くの学ぶべき点があります。スカルマさんは、自分がこの視点に気づいたのは「出てきてから」だと言います。つまり、ラダックの外に出て、グローバルな視点からラダックを見直した時に初めて、その価値に気づいたのです。彼は若い頃、ちょうど社会が変わる時期で混乱していたと説明します。「最近まで全て農業、農的な農家、まさにそういう生活をしてたのに、それがどんどん変わっていく」という状況の中で、伝統の価値を見失っていたのです。しかし、外国に行き、帰ってきてから、ラダックの人々との対話を通じて「これ、とても大事だな」と再認識したといいます。このような認識の変化は、外部からの視点と内部の知恵を組み合わせることの重要性を示しています。ラダックの持続可能な生活様式は、単に「過去の遺物」ではなく、現代の環境危機に対応する貴重な知恵の源泉として再評価されているのです。結論:未来に向けた対話と実践スカルマさんの講演と質疑応答を通じて浮かび上がってきたのは、伝統的な知恵と現代的なニーズのバランスを取りながら、持続可能な未来へと進む道筋です。彼は一方的な理想論や懐古主義を避け、現実に根ざした対話の必要性を強調しています。「ロマンティックにする」のではなく、「みんなで正直に、どういうプラクティスがあるかをお互い一緒に考える」という彼の言葉には、当事者主体のアプローチの重要性が表れています。これは単にラダックだけでなく、伝統と近代化のバランスを模索する世界中のコミュニティにとっても重要な視点でしょう。また、スピリチュアリティと持続可能性の結びつきも注目に値します。「生きとし生けるもの」への配慮という仏教的な世界観は、現代のエコロジカルな思想と共鳴する部分があります。こうした精神的な側面も含めた総合的なアプローチが、真の意味での持続可能性には不可欠かもしれません。最終的に、ラダックのような辺境地域の経験は、グローバルな課題に対する多様な解決策の一部として、より広く共有され、適応されていく価値があります。外部からの一方的な「発展」の押し付けではなく、内発的な知恵を尊重しながら、必要な変化を受け入れていく—そんなバランスのとれたアプローチが、ラダックと世界の持続可能な未来への鍵となるでしょう。